社団法人熊本県サッカー協会
井薫会長ブログOldDreamerの戯言

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第21回 スポーツの秋・五輪・国体・県体と私

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10月13日は体育の日、昭和39(1964)年10月10日、第18回夏季五輪の東京大会の開幕、一年で一番天気が安定するという過去の気象データ通りに、快晴のもとにアジアで初の大会が行われた。五輪を記念して体育の日がこの季節に制定された。

夏季五輪は8年後の1972年のミュンヘンから8月開催となったが、それまでは10月に開催された。国体も県体もこの季節であり、これらに永く関ってきた私としては70歳になった今も心弾むものがある。

昭和51(1976)年、カナダ・モントリオールでの第18回大会、ハンドボールの女子日本代表の監督で出場、38歳だった。新しく登場した麻生太郎総理もこの大会にクレー射撃に選手として出場している。モントリオールのほか五輪は東京、ミュンヘン、ロス、ソウル、バルセロナ、アトランタを観戦した。

国体は第2次大戦の終わった翌年の昭和21年、荒廃した日本に明るさと元気を取り戻す意味で、戦火をまぬがれた京都を会場に始まった。熊本県の1順目の第15回大会は昭和35年に行われた。私は熊本国体は大学4年生、成年男子の熊本クラブのメンバーに当時3名まで許されていた学生の身分で出場した。

翌年に女子の大洋デパートチームが誕生、そこから監督と成年男子の選手の二束のわらじで国体出場が始まった。成年男子としては5~6年で終わったが、平成6(1990)年、日本体育協会の「国体30回出場」の表彰をうけたが、選手団の役員も加算したものではなく、監督と選手としては最短、最年少との評を日体協からいただいた。

この間、10回優勝ができたが、本当に頑張る選手たちに恵まれたと感謝してる。自分にできたこと事は、この間、病気ひとつしなかった事と、成績に伴い日本代表チームのコーチ、監督の時代も結構永かったが、世界選手権大会の時期が12月~2月の冬場が多く、国体には支障がない幸運に恵まれた。

平成2(1990)年に立石電機からオムロンに社名が変る機会に監督を退いた。それから平成9(1997)年の熊本でのハンドボールの男子世界選手権大会開催に向け、また、熊本県体育協会の理事として、平成11(1999)年の2巡目の国体の準備に入る事になる。国体で天皇杯を獲得の翌年から、県体協の副会長、昨年の秋田国体では県選手団の団長を務めた。本年3月県体協を辞任、48年に亘る国体との関わりが終わった。

次に県民体育祭。昨年から熊本市体育協会長に就任、今年は9月20、21日玉名市郡で行われた。五輪が国の代表なら、国体は県の代表、県体はわが町、わが村の代表だけに盛り上がりも高まる。町村合併や政令指定に向けた合併で、従来の枠では括れない課題も出てきているが、いずれにしても県民の体力、健康づくりに大きな使命を担う大会だ。

昨年、熊本県サッカー協会にも就任、宇城のアカデミーの開設やロアッソ熊本の支援等の課題があるが、来し方の体験をもとに、微力だが日々忙しく過ごしている。

写真:平成20年度県民体育祭熊本市選手団役員の方々。前列中央右が井会長。(関係者提供)